センター試験の思い出(四年前)
昨日今日とセンター試験が行われていたらしい。
この大雪の中で受験生の人達は大変だったろうなあと思うと同時に、そう言えば自分も四年前にセンター試験を受けていたんだったと思いだした。
あの時は多分雪も降ってなかったし、受験する場所が当時通っていた高校だったので微塵もアウェー感がなかった。
休憩時間も同じ教室で受験している知り合いとだらだら喋っていたし、高校は進学に命を懸けてるような校風でもなかったから、みんなあんまり緊張感もなかったような気がする。
ぶっちゃけ今年ダメだったら浪人でもするか―という感じだったんだろう。
今思えば非常に楽だったと感じる。
自分が受験した年は国語で例年通り謎問題が出題されて、「スピンスピンスピン、スピンアロット(spin spin spin, spin a lot)」「シイゼアガアル、アンゼアボオイ(see their girl, and their boy)」などと文中で唐突なカタカナ英文が現れたのには驚いた。
まあでも、問題自体は普通だったから大して影響はなかったように思う。
後は数学ⅠAの傾向が変わったかどうだかして予想より点数が取れなかったけど、そのかわりⅡBが楽だったから結果トントンだった。
知り合いの部屋では泣き出した女子が居たらしいけど、幸い自分の部屋には居なかった。
それ以外は特に覚えがないくらい普通の年だったと思う。
今年はどうだったんだろうなあ、どうせまた国語の問題で誰かが文句言ってたりするんだろう。
もはや風物詩だな。
雪が降っている中で引きこもっていると優越感を感じる
昨日の夜から「なんか雪降ってるなー」くらいのことは気づいてたんだけど、今朝起きたらちょっと引くくらいに雪が積もっていたから驚いた。
住んでる地方はそれほど雪が積もらない地域なので、雪が降ってもちゃんと積もるというのは珍しい。
大学に入ってからはこんなに積もったことなかったんじゃないだろうか。
雪の中を大学へ行った覚えがない。
こんな日には、高校時代に雪が積もった歩道を恐る恐る自転車を漕いで通学していたことを思い出す。
結構危ないことしてたな、自分。
今はもうそんな無茶をする気分にはあまりならない。
こけたら痛いし。
自分は雪が降ったり猛暑だったり、天候の厳しい時分には「将来は引きこもって暮らせるようになろう」と心に決めていたものだ。
大学生であるうちはある程度それが実現できていた、学校に行きたくなければ行かなければいいのだ。
そうやって自室に引きこもっているとき、まるで自分の相対的幸福指数が急上昇した気分になる。
他の人間たちが働いている間にのんびりしているだけでも自分の相対的幸福指数が上昇するのに、加えて彼らがこの悪天候で通勤通学を強いられているともなれば、相対的幸福は増加の一途をたどる。
思えば大学生になって一番よかったのは、自分の時間を自分の自由にできることだろう。
しかし四月から会社員になれば、そうもいかない。
「雪が積もってるのでいけません」なんて言おうものなら、次の出社日には周囲の痛い視線にさらされること間違いなし。
挨拶をしても返す同僚は無く、部署内で共有されている申し送り事項も自分にだけは伝えられない。
そうしていたたまれなくなった自分は自ら退職するという図式が見える。
恐ろしき哉、社会人。
自分は基本的にインドアな人間だから、外に出なければ心が死ぬなんて言うことは無い。
そうなれば、なるだけ家の外に出ないで生きられる方法を模索するべきだ。
しまったなー、大学生のうちに家の中でお金を稼げるようにしておくべきだった。
つくづく株やら不動産やらで不労所得が欲しい。
勉強してみようかな。
目標は三十歳までに会社を辞めるということで。
本屋の本棚にある本って、やたらと面白そうに見える
昨日、カラオケの後に本屋へ立ち寄ったんだけど、そこでついつい本を買ってしまった。
養老孟司『身体巡礼』、円城塔『Boy's Surface』、芦辺拓『奇譚を売る店』の三冊。
特に『身体巡礼』の帯に書かれた
「心臓だけを別に埋葬する奇習、骸骨堂、旧ゲットーのユダヤ人墓地……。ヨーロッパの長い歴史は無数の死者の埋葬と共にある」
っていうコピーがむちゃくちゃ気に入ってしまった。
何だろうこのワクワクする気分。
そう言えば日本ではあんまり死体や骨が残っているという話を聞かないような気がする。
土中に埋葬されているのが発掘されることはあるけど、それが一般に公開されているっていう話はあまり聞かない。
自分が無知なだけということかもしれないが。
ひょっとしたら気候の違いが関係してるのかも?
それにキリスト教圏では腐敗しない死体を奇跡と考えた聖人信仰があったりするから、日本に比べると死体そのものに対する嫌悪感が無いのかもなあ。
ともかく、本屋に入った時点では何も買う気が無かったのだけど、本棚に陳列された本を眺めているとついつい手を伸ばしてしまう。
そして一冊、二冊と手に抱える本の冊数が増えていき、遂にはそれらを買ってしまう。
なんとも不思議なものだ。
本屋の陳列を考える書店員の人達ってすげえなあと思わざるを得ない。
それにやっぱり、まだ自分が読んだことない本は全て面白そうに見える傾向がありそうだとも思う。
最近は「知らない、わからない」ってとても贅沢なことなんじゃないかなあという気がしていて、何もかもがわかってしまった状態はすごくつまらないだろうと感じる。
何もかもがわかるっていうのはある意味で悟りを開いた状態と似てるのかもしれないけど、それは穏やかでありこそすれど、あまり楽しくもなさそうだ。
だからついつい知らない本に手を伸ばして、懐を寂しくさせているわけだけど。
それくらいの楽しみは、死ぬまで持っていたいなあ。