読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ちょっと最近、時間の流れが速すぎる

日々の雑談や本の感想などを書いていきます。

佐藤亜紀「醜聞の作法」感想  

 

人間っていうのは本当に、どうしようもなくゴシップ好きなのである。

それは今テレビでやってるワイドショーとか、ツイッターの炎上騒動を眺めていてもよくわかるだろう。

ワイドショーを見てる人口の半分以上は、まじめな事件報道なんかよりも芸能人の熱愛情報やら不倫騒動やら薬物疑惑やらを見たいに違いない。

そんな人間の性っていうのは、今も昔も変わらないもののようで。

 

作者である佐藤亜紀のことは少し前に「バルタザールの遍歴」を読んで知って、もう一発でファンになってしまった。

描かれているのは時代を隔てたヨーロッパ(「バルタザールの遍歴」では第二次世界大戦前夜の東ヨーロッパ)なのに、圧倒的な知識と生き生きとした描写によってその光景がまざまざと浮かび上がるよう。

ぼんやりと幻想的な話の筋も大いに気に入ったのだった。

 

ともあれ、「醜聞の作法」の話に戻ろう。

フランス革命を間近に迎えたフランスで巻き起こるゴシップ(醜聞)騒動を、書簡体形式で描いた作品。

金満家との縁談を強要された養女を救いたいと思った侯爵夫人が、弁護士崩れのルフォンに依頼して当の金満家、そして縁談を進める侯爵のゴシップを流布して縁談を転覆させようとする。

この小説を読むまで知らなかったのだが、この時代の裁判と言うのは訴状そのものの哀切さや訴訟にかかわる人物の背景なんかに大いに左右されたらしい。

もちろん、訴状の内容があまりにも人々の哀れを催すものであれば訴えが通りやすく、貴族や富裕な町人が下々の者から訴えられたというのでは分が悪い(判官びいきというやつだろう)。

弁護士には裁判官の哀れを催すような訴状を書く技術が必要とされたのであり、ルフォンはその点でゴシップを作り上げるにはうってつけだったのだ。

 

この小説は侯爵の手下としてルフォンに直接の依頼をした人物(作中で名前は明かされない)からの侯爵夫人への手紙、そして世間に流布した「覚え書き」(侯爵夫人、養女、養女の思い人らの手紙が流出したという設定である)によって構成されている。

侯爵夫人とその養女、侯爵、金満家についての物語は全て「覚え書き」の中に描かれているので、それが実際にあった出来事を基にしているのか、それともルフォンの作り出した絵空事なのかが読者にはわからない。

にも関わらず、ルフォンの書きぶりの巧みさによって彼らの物語がどのように展開していくのか、思わず手に汗握ってしまう。

一方の現実世界ではうだつの上がらないルフォンが金に目がくらんで危ない橋を渡っており、こちらもどうなるのかが気になって仕方がない。

やがて身の危険を感じたルフォンは失踪を遂げ、身を隠しながらゴシップの続きを書き続け、人々はゴシップに熱狂し悲しみ義憤にかられ、やがて金満家の手先によって居場所を突き止められ、当の金満家や侯爵の前へと引っ立てられるのだが……。

一市民であるルフォンが見せる意外なしたたかさ、そして終盤の幻想的な結末は素晴らしい。

 

それにしても冒頭で述べた通り、このゴシップの構造が昔と今で変わっていないことが面白い。

ルフォンの言う

「何が出鱈目で何が出鱈目ではないかなど、一体誰に決められましょう?」「彼ら(民衆)にとっては目に見えた——と思えたものが全てであり、その見掛けに合致していれば、それは真実としか見えないのです」

等の指摘は、そのまま現在のSNSや週刊誌の報道に踊らされる現代人にも当てはまるだろう。

またシャンゼリゼ通りの男が言う、ゴシップが流布するのはその先の結果が決まってしまったも同然で、先に起こる結末があるからこそ半ば公然とゴシップが流布するのだ、という言説も考える余地がある。

ある対象にまつわるゴシップが流れるという状況はそれ自体が対象の危うさを意味していて、ゴシップが流れるから対象が沈没するのではないというのは面白い考えだ。

 

随分長くなってしまった。

何にしろ短い小説であるから、気が向いたときにでもぜひ。