音楽ウェブマガジンの「BASEMENT-TIMES」 、すごく好きだけどちょっと憎い
昨日だったか、ネットサーフィンをしながら別タブでYoutubeの音楽を適当に聞き流していた。
最初に聞いてたのはAlfred beach sandalあたりだったかな?
軽快でどこかひねくれた感じがとても好きだ、CDも持ってるけどYoutubeでもついつい聴いてしまう。
連続再生機能をオンにしていたので、段々と自分の知らない曲が流れるようになったのだが面倒くさくて流れるままにしていた。
そしたらめちゃくちゃ洒落た雰囲気の曲が流れ始めて、「お、これはいいんじゃね」と感じてYoutubeの再生ページを見た。
流れてたのはコレ。
とても良い雰囲気、かっけー。
こういう掘り出し物があるから、適当に連続再生で音楽を漁るのはやめられないのだ。
ところでこのバンドについてグーグル先生で検索を掛けてみたところ、上から二つ目に出てた記事がコレ。
やっぱりあったか、BASEMENT-TIMESの記事。
BASEMENT-TIMESと言えば日本のロック界隈では超人気のウェブサイトだ。
ロック好きな人なら結構な割合がのぞいてるんじゃないだろうか。
実際に自主企画でライブやったりするくらいには勢いがある。
自分はそんなに熱心に音楽聴いてるわけじゃないけど、このサイトは記事読んでるだけで面白いしたまにのぞいている。
そして、気になったバンドなんかを検索するとたいていここの記事がヒットする。
すごいアンテナだなー、と感心してしまう。
BASEMENT-TIMESさえ見てれば、日本のロック界隈で流行ってるものがだいたいキャッチできるだろう(まあ記事の中には有名バンドを貶してるものも多いけど)。
これってすごいことだよなー、と思うのだ。
自分のように音楽の趣味について話せる知人が居ない場合、こういうウェブサイトなんかは非常にありがたい。
たとえ他の人との情報交換ができなくても、自分一人ではとても知り得なかった良いバンドやらジャンルやらに触れることができるからだ。
ただ、ありがたいと思うと同時に自分のような適当に触手を伸ばして新しい音楽を見つけてる人間にとっては、羨ましいやら妬ましいやら思うところがあるのだ。
自分がたまたま見つけた良バンドの記事が既に作成されてる。
これが自分の如き根暗音楽ファンの自尊心を傷つける。
音楽の趣味って自分のアイデンティティに関わってくる気がして、そういう部分で「他人と違う」というのは自尊心を高めてくれる。
好きな音楽、バンドがマイナーであればあるほど自尊心は高まり、「俺はお前らとは違うんじゃい!」みたいなマウントが取りやすくなるのだ。
口に出して言いこそしないが、自分のように低俗な人間は心の中でこう思うことによってストレスフルな現代社会を生き抜いている。
それがBASEMENT-TIMESで既に紹介されているとなるとどうか。
もし何かの拍子に自分が「このバンド好きなんすよー」とか言ったとしよう。
すると相手が「あ、こいつどうせBASEMENT-TIMESで知ったんだろうな」と思うかもしれない。
いや、思わないかもしれないけど「思うかもしれない」という部分が重要。
むしろ自分が好きなバンドについてしゃべることがあるという可能性は限りなく低いのだが、実際に起こるかどうかが問題ではない。
「起こるかもしれない」そう考えただけで繊細な自尊心はズタズタである。
いけ好かない野郎に対してマウントとれねえじゃん!
すげー自分勝手なこと言ってるけど、こういうわけでBASEMENT-TIMESについては愛憎半ばみたいな感情を持ってる。
いや、ぶっちゃけ大好きだけどね、愛:憎の割合は8:2くらい。
そういうわけで、最後に一つだけ。
THE PINBALLSは自分の方が先に好きだったから!
以上。
そういえば昨日の新聞に森見登美彦のインタビューが載ってたね
昨日ぼーっと新聞読んでたら、森見登美彦さんのインタビューが載ってたので嬉しくなった。
ネットにもあるかなーと探したらあった。
これこれ。
森見登美彦大好きなんだよー、だからこんな少しのインタビューでも読めて嬉しい。
やっぱり「夜は短し歩けよ乙女」から入って、文庫落ちしたのは全部買ってる。
ただ単行本はなー、貧乏学生にはちょっと手が出しづらいところもあって買えてない。
本棚の場所もとるし。
森見登美彦のホラー寄りの作品集に『きつねのはなし』があるけれど、自分はあの中に収録された「魔」が好きだな。
路地裏を駆け抜ける奇妙に胴の長いケモノ、夜道に乗じて通行人を殴りつける通り魔、夕立の中で木刀を持って対峙する少女と青年。
もう出てくるものすべてがワクワクさせてくれるし、全編に漂う気だるげで切ない雰囲気が大好き。
他にも『宵山万華鏡』や『新釈走れメロス』中の「百物語」なんかもホラーっぽくて、こう見てみると結構森見登美彦ってホラー寄りもいける。
まあ、元々ヘンテコな謎京都のガジェットを少し捻れば怪談調になるのは目に見えてるし、このインタビュー以外でも内田百閒が好きだと言っていたし納得。
自分も森見登美彦の影響を受けて内田百閒を読んだけど、『阿房列車』の三冊目だったかな、でそれまではただ当てもなく列車に乗ってであちこち行く旅行記だったのが、ふいに不気味な話に転じたのには驚いた。
他の『冥途・旅順入城式』なんかでも、日常のすぐそばに不気味な世界が見えている感じがある。
こう考えると森見登美彦の「日常のすぐそばにヘンテコがある」のと内田百閒の「日常のすぐそばに不気味がある」のは似通っていて、影響受けてるんだなあと。
うあー、『夜行』買いたい、でも金が無い。
ここ最近、人としゃべってなさすぎる
年越してから一週間が経ったわけだけど、すごいことに気づいてしまった。
年越してから、親族以外と一言もしゃべってない。
おいおいマジか。
考えてみれば年末年始を祖父母の家で過ごし、こっち帰って来てからも父母以外としかしゃべってなかった。
友人知人、誰一人として顔を合わせてないし電話もしてない。
特に四日以降は一言も人間としゃべってない。
部屋の中ではよく一人で歌ってるから、声は出してるけど会話じゃない。
どうしてこんなことになってしまったのか。
自分以外の誰かに責任を擦り付けたいが、どう考えても自分の責任だ。
自分は用事が無ければ家から出ない主義であるし、その用事も誰かに会う必要がある類のものはちょっと思いつかない。
せいぜいスーパーで買い物をするか、ごみを出すかである。
というか年越し後にそれ以外の理由で外出してない。
極力働かずに生きていきたい人間だからバイトもしてない。
それに電話だって、自分から誰かに掛けるということは、何かしゃべらなければならない用件でもない限りしない主義だ。
当然、そんな用件は自分の人生にありはしない。
世の中には何の理由もなく電話を掛ける人種がいるようだが、自分にはよくわからない。
何でそんなに他人としゃべりたがるのか。
とまあ、ここまでダラダラと自分がいかに人としゃべってないのか、人と関わるのを面倒くさがっているのかを書いてきたわけだけど。
さすがにちょっと寂しくなってきた。
そろそろ誰かから電話かかってこねーかなとか思っちゃう。
でも自分からかけるのは面倒くさい、というか話す内容が無い。
ちなみに最後に話したのは先月の30日。
古い友人から電話がかかってきて、マルチの勧誘をされたゾ。
「マルチやん」って言ったら「ちゃう、ネットワークビジネスや」って返されて笑った。